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石川県
石川県(いしかわけん)は、日本の北陸地方の県。県域は令制国の加賀国と能登国にまたがる。
江戸時代には前田家の加賀藩は越中(現在の富山県)を含めて百万石となり、日本三名園の一つである兼六園が造営され、加賀友禅、九谷焼、金沢箔、輪島塗などの伝統工芸が発達した。県庁所在地は金沢市。

石川県
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地方

中部地方、北陸地方

団体コード 17000-3
ISO 3166-2:JP JP-17
面積 4,185.55km2
※境界未定部分あり
総人口 1,164,745
(推計人口、2010年7月1日)
人口密度 278人/km2
隣接都道府県 富山県、福井県、岐阜県
県の木 アテ
県の花 クロユリ
県の鳥 イヌワシ
他のシンボル 県の歌: 石川県民の歌
県庁所在地 〒920-8580
石川県金沢市鞍月一丁目1番地

地理

南東部の岐阜県境には白山があり、福井県境を含めた両白山地・加越山地を構成する。白山から富山県境には倶利伽羅峠、宝達山などが連なる。

河川は手取川、梯川、大聖寺川、犀川、浅野川などが流れている。 特に手取川は県内大半の上水道の水源となっており、県北部の能登半島までパイプによって給水されている。

能登半島には複雑で景観がよい海岸がある。県南部の海岸線は内灘砂丘など砂丘を構成している。内灘砂丘は砂の量は日本一である。砂丘の内側には河北潟などがある。羽咋市にある千里浜海岸ドライブウェイは日本で唯一、車で波打ち際を走れる海岸線である。

日本海には舳倉島が浮かぶ。

県内全域が日本海側気候で、豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)に指定されている。

歴史

[原始・古代]
県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡(灯台笹=とだしの)[2][3]など、極めて少ない。続く縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡が数える程で、中期と晩期にピークがある。能登を代表する能登町の真脇遺跡や金沢市新保本町のチカモリ遺跡で大量の木柱根などが出土し話題となった。同遺跡で縄文後期の祭祀施設らしい巨木を配置したウッド・サークルが見つかっている。

県域は古くは越前国の領域に含まれていたが、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国守に赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。また823年には越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立国され、これが令制上最後の立国となった。

奈良時代から平安時代初期には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し、現・志賀町に渤海使接待のための能登客院も設置され、交易も行われた。源平の戦いでは、木曽義仲が倶利伽羅峠で四・五百頭の牛の角に松明を付け、平家の陣に追い入れる「火牛の計」を用い平家をやぶり、さらに篠原の戦いで逃げる平家を追撃し、京都に進んだ。室町時代には加賀の守護は冨樫氏、能登の守護は畠山氏であった。

[ 中世]
応仁の乱のころ浄土真宗が加賀に進出、やがて農民らによる一向一揆が守護の冨樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以である。本願寺は後の金沢城の位置に金沢御坊を作り、ここを拠点にして支配した。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登を前田利家に、加賀を佐久間盛政に与えた。信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀も領して、金沢に入城した。

[近世]
関ヶ原の戦いで家康についた利家の息子、利長は越中全域も含め、約120万石を領する大大名となった。前田家は産業・工芸に力を入れ、城下町金沢は江戸末期には人口で日本4位の都市へと発展した。江戸時代に置かれた藩は金沢藩、大聖寺藩があり、城代の置かれたものに小松城がある。また、当時は富山県も加賀藩であったが、間に富山藩があることで領地が分断されたため、西側の高岡などに比べ魚津など富山藩以東の加賀藩領地は事実上東の文化となった。

[近・現代]
明治維新後、廃藩置県で1871年7月14日に金沢県と大聖寺県が成立した。同年11月20日に金沢県と大聖寺県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国の3郡を分けて新川県(当時は魚津が県庁所在地)を設置、能登地方と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県を置いた。明けて1872年2月2日に、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。

同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓11か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し翌1873年に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。

その後、1876年に当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)、敦賀県(現・福井県)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年に福井県が、1883年に富山県が、それぞれ分離して現在の県域となる。 1981年に富山県の人口を抜き、北陸最大の県となる。

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