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岩手県
岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市。

岩手県
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地方 東北地方
団体コード 03000-7
ISO 3166-2:JP JP-03
面積 15,278.88km2
※境界未定部分あり
総人口 1,331,695
(推計人口、2010年7月1日)
人口密度 87.2人/km2
隣接都道府県 青森県、秋田県、宮城県
県の木 ナンブアカマツ
県の花 キリ
県の鳥 キジ
他のシンボル 県の魚 : ナンブサケ
県庁所在地 〒020-8570
岩手県盛岡市内丸10番1号

東北地方の北部(北東北)に所在し、北は青森県、西は秋田県、南は宮城県と境界を接している。面積は15,378km2で、日本の都道府県としては、北海道に次いで2番目に広い。県の人口およそ135万人のうち、100万人以上は、内陸部の北上盆地に集中している。

「岩手」の名称は、県庁の置かれた盛岡市の所属郡名「岩手郡」に由来する。その起源については、「住民の悪鬼追討の祈りに対し、人々の信仰を集めて『三ツ石さま』と呼ばれていた大岩(三ツ石の神、現:三ツ石神社)がそれを懲罰し、二度とこの地を荒らさないという鬼の確約を岩の上に手形で残させた」という故事にならうとされる。

また、「岩手」の名が文献に登場するのは、「みちのくから都に献上された鷹を、帝がたいそう気に入り、鷹に慣れた大納言に預けたが、取り逃がしてしまった」という大和物語の一説の鷹の名「岩手」が初めてだといわれている。 帝は、岩手を失った悲しみを「言わないことが言うことより気持ちが勝る」の意味で、「岩手=言はで」に掛け「いはでおもふぞいふにまされる」と詠じたという。この表現は、古今和歌集の中からの本歌取りである。

気候

気候区分は内陸の那須火山帯の麓は日本海側気候、それ以外の地域は太平洋側気候。それに併せて、内陸は内陸性気候で夏は暑く冬は寒く、沿岸北部・沿岸南部は海洋性気候で夏は涼しく冬は内陸ほど寒くない。

県内全域が豪雪地帯であり冬には県全域に雪が降るが、積雪量には地域差が大きい。西和賀町と八幡平市は積雪量がかなり多く、特別豪雪地帯に指定されている。奥羽山脈では、積雪量が多く雪質もいいため、いくつかのスキー場でスキーやスノーボードの国際大会や国内大会が開かれることが多い。

太平洋側の盆地である北上盆地は、冬季の西高東低の気圧配置になると奥羽山脈が「壁」の役割をはたして晴天になる場合も多い。そのため、放射冷却によって早朝の最低気温がかなり低くなる。対して、降雪時や曇天の場合は気温が下がりづらい。北上盆地に位置する盛岡市は、このような放射冷却の影響がある脊梁山脈東側盆地の最北端都道府県庁所在地であるため、(日本海側のため冬季は曇天が多く、放射冷却がおきにくい)青森市や札幌市など、より北に位置する都道府県庁所在地よりも最低気温が下回る時が多く、東北地方では勿論、日本の都道府県庁所在地で最寒都市である日が多い。実際、北上盆地の各都市(盛岡市、花巻市、北上市、奥州市)は、今でも厳冬期に-15度前後まで下がることもあり、北海道を除き、標高が高くない都市平地部では最も冷え込みが厳しい地域である。

一方、北上盆地の夏は、フェーン現象の影響で、南にあり海洋性気候の傾向もある仙台市よりも気温が高いことがしばしばあるが、沿岸部は仙台市と同様の気候となることが多い。

歴史

先史・古代

平泉町・中尊寺金色堂外観約4万年~3万3000年前には、斜軸尖頭器を出土した柳沢舘遺跡(奥州市)や金取遺跡(遠野市)などが存在した。また、ハナイズミモリウシをはじめとする動・植物化石が多量に発見された金森遺跡(一関市)などの遺跡から旧石器時代から人が住んでいたと考えられる。

古くは縄文時代より豊かな狩猟・漁労生活を実現した地だった。また蝦夷の中心地で、北上川流域を日高見国とも呼ばれていた。

8世紀末の38年戦争では胆沢(現在の奥州市)に先住民アテルイが現れて朝廷軍に抵抗するが、征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂によって滅ぼされた。その後朝廷の勢力下に置かれ、蝦夷と呼ばれた先住民の多くが全国に強制移住させられた。この後一部が俘囚と化し、11世紀までに俘囚長の安倍氏が衣川(現在の奥州市)に拠点を置き、半独立の勢力を築いた。安倍氏は前九年の役で源頼義の率いるヤマト朝廷軍になびいた秋田仙北の俘囚主清原氏によって滅ぼされた。その清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅び、安倍氏の血を引く奥州藤原氏が東北地方を掌握、豊かな産金をもとに仏教を基盤とする地域支配を実現、その平泉時代を築いた。

中世
鎌倉時代には甲斐国南部の河内地方を領した甲斐源氏の南部氏が八戸周辺に移住し、今の青森県から岩手県北及び秋田県鹿角地方にまで勢力を伸ばした。県央部では斯波氏、稗貫氏、阿曽沼氏、和賀氏などが割拠し、県南部は葛西氏、留守氏が有力だったが、次第に福島県伊達郡に根城をおく伊達氏の勢力が浸透し、室町時代には葛西氏、留守氏は伊達の馬打ちとして事実上支配下におかれた。

これらの諸氏は伊達氏の内紛によって再び自立するが、伊達政宗の仙台移封を機会に葛西氏は滅亡、留守氏は伊達氏の一族として組み込まれた。同じ頃、安倍氏の末裔である一方井氏を母に持つ七戸南部氏の南部信直が勢力を拡大し、南部所属の頭領として振舞うようになると、これを認めない九戸南部氏の九戸政実と争い、豊臣秀吉の知遇を得た信直は秀吉軍を招きいれて政実を滅ぼした。大浦氏以外の南部氏諸家を統一した信直は盛岡に拠点を移し、勢力を確立した。(九戸政実の乱)

近世
江戸時代には、県の南部は概ね仙台藩伊達氏に62万石、一関藩は田村氏、水沢には伊達氏城代が置かれ、北部は移封も無く盛岡藩南部氏によって20万石統治された。幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を作ると、現在の岩手県を支配していた南部藩・伊達藩はその中心となるが、結局敗れて明治政府によって占領された。

近代以降

東北新幹線の路線図その後、盛岡県を岩手県に改称させられ、莫大な御用金を課せられたり、旧藩を分断する県域を設定され弱体化を図られるなど敗戦の屈辱を味わう。しかし、これをバネに多くの人材を輩出。原敬が内閣総理大臣に就任して薩長藩閥政治を終わらせ議会政治の定着をはかるなど、近代日本国家建設に多くの功があった。

1876年(明治9年)1月に最初の県議会が開かれ、5月に岩手県が成立した。県名はそれまでの県庁所在地の郡名をとって付けられた。

1889年(明治22年)に、南岩手郡盛岡が岩手県下で初めて市制施行し、盛岡市となる。1937年には、製鉄業によって発展した上閉伊郡釜石町が市制施行し、釜石市となる。1941年には、下閉伊郡宮古町・山口村・千徳村・磯鶏村が合併・市制施行し、宮古市となり、戦前までに3市が誕生した。

戦後、1950~1960年代には、山岳地帯のため交通の便が悪いことや、主な産業が新日本製鐵の釜石製鐵所位しかなく、所得水準が全国でも低いことから、自ら「日本のチベット」と呼び、政府の振興策を求めたこともあった。なおこの呼称は、1955年1月22日封切のニュース映画『カメラルポ 脚光あびる日本のチベット 岩手三陸』において用いられたことから定着したという。

その後、1964年(昭和21年)に花巻空港が開港、1982年に東北新幹線の大宮 - 盛岡間が開業して、首都圏からは約3時間、仙台からも1時間圏内(当時)となり、交通の便は改善された。これに伴って、安価で広大な土地や豊富な水などを背景に、北上市、胆沢郡金ケ崎町周辺を中心として工場の進出が急激に進展。関東自動車工業(トヨタ自動車)などの自動車産業、東芝や富士通などの半導体工場、塩野義製薬など大企業の工場の進出が進み、製造品出荷額が大きな伸びをみせた。

2008年には、6月14日に岩手・宮城内陸地震(最大震度6強)が、7月24日に岩手県沿岸北部地震(最大震度6弱)の大規模地震が発生した。

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