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奈良県
奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つで、本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の東部に位置する県。令制国の大和国の領域を占める。県庁所在地は奈良市。北西部の盆地地域を除き険しい山がそびえていて可住地面積も少ない。

奈良県ではやまと21世紀ビジョンを作成し「世界に光る奈良県づくり」「関西のオアシス」を目指している[2]。また、古代より多くの都城が置かれたことから「日本の故郷」とされる。2010年には平城遷都1300年記念事業が開催されている。


奈良県
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地方 近畿地方
団体コード 29000-9
ISO 3166-2:JP JP-29
面積 3,691.09km2
※境界未定部分あり
総人口 1,397,295
(推計人口、2010年7月1日)
人口密度 379人/km2
隣接都道府県 大阪府、京都府、三重県、和歌山県
県の木 スギ
県の花 ナラヤエザクラ
県の鳥 コマドリ
他のシンボル 県歌:信濃の国
県獣:ニホンカモシカ
長野冬季五輪開催記念日:
2月7日
県庁所在地 〒630-8501
奈良県奈良市登大路町30

紀伊半島中央の内陸部に位置し、北西部に奈良盆地、北東部に大和高原、それ以外は大台ケ原や近畿地方最高峰の八経ヶ岳(八剣山)といった紀伊山地が広がる。県土が海域と接することのない内陸にある県では全国で最も面積が小さい。また、可住地面積も全国一狭い。

県内の地区を北和、中和、西和、宇陀、南和などと区分されることもあるが、それぞれの境界線は曖昧であり、近年は単に中央構造線によって北部、南部と表記されることも多い。

気候

気温の年較差・日較差の大きいいわゆる内陸性気候で、奈良における年平均気温は14.6℃と全国の気象官署の中でほぼ平均的な気温である。降水量は年間を通じて1333.2mmと比較的少なく、奈良盆地(奈良市・橿原市などの地域)では降雪の観測日数は多くない(年平均23.3日)。一方、五條地域・吉野地域・宇陀地域などは降雪・積雪に見舞われることがあり、天川村・上北山村にはスキー場も存在する。これらの地域では積雪が交通に影響を与えており、奈良県の道路政策には「雪害対策」の文言が含まれている。

気象は一般的に瀬戸内海式気候に属する北部(基準地は奈良市)と太平洋側気候に属する南部(基準地は吉野郡十津川村風屋)に大別される。天気予報では北部と南部に分けて発表される。

さらに北部を北西部(基準地は奈良市で狭義の奈良盆地の地域)、北東部(基準地は宇陀市で、おもに宇陀地域)、五條・北部吉野(基準地は五條市で、旧大塔村の地域を除く五條市域と、吉野郡3町)と二次細分区分として3分割している。

南部は南東部(基準地は吉野郡上北山で、宇陀郡のうち、御杖・曽爾地域と吉野郡の大峯山系東側の地域)と南西部(基準地は十津川村風屋、五條市のうち旧大塔村の地域・十津川村・野迫川村)と2分割している。

奈良の夏の暑さは典型的な盆地気候で夏場はかなり蒸し暑い。2005年7、8月における最高気温では十津川村風屋の37.3℃、上北山の37.0℃、五條の36.7℃、奈良の36.2℃となる。また最高気温25℃以上の夏日は奈良と五條がほぼ全日の60日間で両トップである。

冬の寒さはどの地域でも厳しい。特に北部山岳部の冷え込みは3月頃まで続くことが多く、年間を通じての最低気温の記録が3月では宇陀市大宇陀区で-6.2℃、奈良市針が-6.1℃となっており、これらの宇陀地域は遅霜などの影響を受けやすい。このほか前述の通り積雪による影響を受ける地域もあり、奈良県内でも気象は一概に言えない状況である。

台風の影響は内陸部のため大きな被害を受けることは稀であるが、1959年(昭和34年)の台風15号(伊勢湾台風)では風水害により死者行方不明者113名を出し、1998年(平成10年)の台風7号では室生寺五重塔など文化財が大きな損壊を受けるなど、台風が紀伊半島を北上する場合には地形の影響から大きな被害が出る。

歴史

先史
本県でも約2万5千年前(炭素14年代測定法による)には旧石器時代の人々が生活を始めた。県西部の二上山一帯は石器石材となるサヌカイトの産出地で、二上山北麓遺跡群には60か所以上の旧石器の遺跡が分布しており、ナイフ形石器・石核・剥片などの遺物が出土している。

縄文時代には木津川・吉野川水系の諸河川が流れる大和高原や吉野山一体を中心に遺跡が分布している。近畿地方では縄文草創期の遺跡は少ないが、県下最古の縄文遺跡は山添村中峯山(ちゅうむざん)の大川(おおこ)遺跡があり、県北部の布目川流域では、山添村の桐山和田遺跡や北野ウチカタビロ遺跡から草創期の隆起線文土器が出土している。また遅瀬川流域の山添村上津の上津大片刈遺跡からも草創期の爪文形土器が出土している。

吉野川流域には大淀町の桜ヶ丘遺跡で、縄文前期・中期の竪穴住居址や炉跡などが検出されている。川上村迫の丹生川上神社上社の旧境内地には縄文早期から後期前期にかけての大遺跡宮ノ平遺跡があるほか、吉野町には縄文後期から弥生中期にかけての宮滝遺跡が所在する。宇陀地域では、縄文後期の本郷大田下遺跡(宇陀市大宇陀区本郷)からはドングリの貯蔵穴(径・深さとも約1メートル)が45基発見された。

奈良盆地では布留遺跡、狐井遺跡など縄文早期からの遺跡が分布しているが、縄文中期の遺物は乏しい。縄文後期には遺跡数が増加し、布留遺跡では縄文後期の遺構に伴い硬玉製大珠も出土している。縄文晩期には橿原遺跡、竹内遺跡などがあり、畝傍山東麓の橿原遺跡からは魚骨類も出土しており、大阪湾岸地域との交易が想定されている。

弥生時代には奈良盆地を中心に集落遺跡が分布し、特に初瀬川左岸の唐古・鍵遺跡は弥生前期からの継続した大規模集落として知られる。唐古・鍵遺跡からは水田農耕の存在を示す水田遺構や環濠、木製農具をはじめ炭化米、高床式建物跡などの遺構が見られ、青銅器生産を示す鋳型も出土している。また、唐古・鍵遺跡の周辺にも分村的な多数の集落遺跡が分布している。

弥生後期には盆地周辺や宇陀地域において高地性集落が出現する。

古墳時代から奈良時代まで

朱雀門(復元・平城宮跡)紀元3世紀から4世紀頃の古墳時代前期に、この地方の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれる。

ヤマト王権は、現在の天皇家の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。また、邪馬台国と同一視する説、北九州にあった邪馬台国の子孫が移住して新たに建国した国であるという説、神武天皇の東遷説などがある。

3世紀の半ば過ぎから邪馬台国連合・ヤマト政権の盟主墳と考えられる古墳が累々と奈良盆地に築造されている。それらを列挙すると、東南部の外山古墳群、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群であり、墳丘長200メートルを超す巨大古墳が6基も存在する。これらの古墳群をまとめて大倭古墳群と呼称することもある。北側の曾布の地域には佐紀盾列古墳群、葛城山の麓一帯に馬見古墳群が所在する。

古代からの神道信仰の伝統、及び6世紀の仏教伝来以来の国策により、この地域には神社仏閣が多数存在する。

ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた。大和時代から飛鳥時代にかけては、橿原市や高市郡に宮が置かれていることが多かった(飛鳥京跡)。特に藤原京は、690年(持統4)に着工され、694年に完成した日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)による中国風都城として知られる。その後、710年に平城京遷都が行われた(奈良時代の始まり)。784年に長岡京に遷都されてからは、日本の首都が県内に置かれることはなくなった。

平城京から長岡京への遷都の一因ともなった影響力を持った寺社勢力は、遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。

平安時代から室町時代まで
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となる。
中近世の大きな歴史的事件には登場しない。ただし温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。
一方で南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、および幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けたが北朝に降った。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。
奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。

戦国時代から江戸時代まで
戦国時代には筒井氏・古市氏・越智氏・十市氏などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に筒井党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。続く豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配し、郡山藩が15万石で最大石高で、高取藩が2万5千石、丹羽国柏原へ移封したが元禄8年(1695)まで宇陀市大宇陀区に所在した松山藩が2万8千石で、小泉藩・柳生藩・柳本藩・芝村藩・櫛羅藩などは陣屋であった。また、交代寄合の平野家の田原本陣屋があった。
このうち大和南部の広大な山域は、五條代官所管轄の天領(幕府直轄地)となった。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。また、あまり知られていないことであるが、五條代官の支配地・管轄はかなり広域で現在の和歌山県の一部も含んでいた。

明治維新以後
1868年(明治元)5月19日、奈良県が設置される。しかし、版籍奉還や廃藩置県・府県統合により、1876年(明治9)4月18日堺県に合併されたり、1881年(明治14)2月7日に堺県を含む大阪府に合併されて「大阪府の大和地域」にされるなどした。しかし、1887年(明治20年)11月4日には大阪府より分割され、奈良県が再設置された。かつて首都の置かれた地域は「県」ではなく「府」とされたため、奈良県でも、東京府、京都府、大阪府と並ぶ「奈良府」への改称運動が起こったが実現せず、存在感が薄かった。

しかし、1892年(明治25年)には湊町(現・JR難波駅) - 奈良間の鉄道開業で大阪と奈良が、1896年(明治29年)には奈良鉄道が木津 - 奈良間を開業することにより京都と奈良が結ばれたことで、神社仏閣の多い奈良県が観光地として栄えていくこととなる。さらに、1914年(大正3年)4月、大阪電気軌道(近畿日本鉄道の前身)が、大阪の上本町駅(現・大阪上本町駅) - 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)開業をさせ、より大阪と奈良の交通アクセスが良くなったことで、多くの観光客が訪れることとなる。特に1940年(昭和15年)の紀元2600年祭には、神武天皇とゆかりの深い橿原神宮に多くの参拝者が訪れた。

近鉄学園前駅前現在の近鉄奈良線に当たる鉄道の開業により、昭和初期(1950年代)には奈良市の学園前周辺が高級住宅地として開発が進んだことで、大阪のベッドタウンとしての発展の礎が築かれた。高度経済成長期(1955年 - 1973年)には近鉄奈良線沿線や近鉄大阪線沿線、近鉄南大阪線沿線では住宅地開発が進み、奈良盆地全域で急激な都市化が進行した。昭和末期から平成初期(1980年代後半 - 1990年代初頭)には、バブル景気により大阪都心部の地価上昇の影響を受け、県内でも地価上昇が進んだ結果、奈良盆地以外の宇陀市や大淀町、五條市でも住宅地開発が見られるようになり、県内の人口は増加していき、ドーナツ化現象の影響を大きく受けた。2000年(平成12年)以降は、都心回帰に影響もあって、人口は減少に転じているが、生駒市や香芝市など大阪から近いエリアでは開発が進んでいる。そのため、県外就業率が29.98%と埼玉県(2位)や千葉県(3位)を抑えて日本一高く(2005年国勢調査)、昼夜間の人口差が大きい。

また1987年には、関西文化学術研究都市の発足に伴い、生駒市と奈良市が同都市の対象地域に含まれるようになる。平城・相楽ニュータウンの開発や、奈良先端科学技術大学院大学の設置や平城宮跡の復元など学術研究の分野でも、発展することとなった。さらに、東大寺学園や西大和学園など国内でも有数の難関私立進学校があるなど、文京地域としても知られるようになった。他に、1000世帯あたりのピアノの所有台数が日本一多い(1999年、359台)という統計などから、教養や教育に力を注いでいる家庭が多いのも奈良県の特徴である。

観光地としての面でも、1993年に法隆寺地域の仏教建造物が、1998年には古都奈良の文化財が、2004年には紀伊山地の霊場と参詣道が、ユネスコの世界文化遺産に登録され、今日では、古都と言えば京都と奈良と言われる程知名度が高く、世界的に有名な日本の観光都市として栄えている。現在、県内4カ所目の世界遺産登録に向け、明日香村が活動を行っている。

さらに、2010年には平城京に遷都されてから1300年目にあたり、平城遷都1300年記念事業を成功させるべく、2005年5月に平城遷都1300年記念事業協会が設立、2010年1月1日、平城遷都1300年祭が開幕した。

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